【Café&Meal MUJI 鎌倉】790年前の住人 その1

【Café&Meal MUJI 鎌倉】

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2022/02/02

みなさんこんにちは。
当店「Cafe & Meal MUJI ホテルメトロポリタン鎌倉」が今ある場所は、過去どのような風景だったのかを探るコーナー、「鎌倉時代の鎌倉」編の2回目です。
 
 
鎌倉時代は、まさに鎌倉にとって繁栄の時代。



源頼朝とその御家人たちの活躍は、歴史の授業や、様々な物語で現代に伝えられています。



彼らの多くはもちろん鎌倉に住んでいたり滞在していたりしたはずで、みなさんが何気なく立ち寄った鎌倉のお店や施設は、かつての有名な人物の家の跡地だったりするかもしれません。
 
 
鎌倉時代の人物がかつて住んでいた場所が全てわかっているわけではありませんが、昔からの言い伝えや、様々な史料に書かれていることから「この辺りに住んでいたのではないか」と推定されているものがあります。
 
【Café&Meal MUJI 鎌倉】

 こうして見ると、幕府のあった場所でもある頼朝の屋敷近くに多くの御家人が居を構えていたようです。
 
みなさんの知っている御家人の名前はあるでしょうか。
 
ちなみに私の推し御家人は、坂東武者の鑑(かがみ)・畠山重忠です。
 
 
 
 
さて、当店のある場所は、今も昔も鎌倉の中心地。



ここには鎌倉時代、誰かが住んでいたのでしょうか。
 
それを知るヒントとなるのが、前回のおたよりでお送りした「小町口」。
当店がある辺りを指すとされている地名です。
 



鎌倉幕府が編纂した日記『吾妻鏡』の貞永元年(1232年)6月7日の記事には次のようなことが書かれています。
 
「夜になって大風が吹き、民家が壊れた。藤内左衛門尉(藤原)定員の小町口にある家が桁から吹き飛ばされ、二町あまり離れたところにあったという。」
 
「桁(けた)」とは屋根のすぐ下にある部分のようですから、屋根部分が大きく、200メートルほど飛ばされてしまったということでしょうか。
 
ちょっと気の毒ですが、とにかくこの日記から、小町口には「藤内(藤原)定員」という人物が住んでいたことがわかります。
 
 
また、この『吾妻鏡』の記述を根拠として、鎌倉市が行なっている発掘作業では、ホテルメトロポリタン鎌倉から鎌倉郵便局までの一帯を「藤内定員屋敷跡(推定)」としています。
 
【Café&Meal MUJI 鎌倉】

 
小町口と言ってもピンポイントで当店のある場所に住んでいたとは限りませんが、少なくとも1232年には、この辺りに住んでいたと推定できる人物と言えます。
 
 
この「藤内定員」という人物は、どのような人なのでしょうか。



次回はこの790年前の住人、藤内定員についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。

 
【Café&Meal MUJI 鎌倉】



 
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。






《参考にした本》
「中世鎌倉 歴史地図」(雑誌『鎌倉市民』連載)
阿部正道・安田三郎著 1969年
 
『現代語訳 吾妻鏡10』五味文彦 本郷和人 西田友広編 株式会社吉川弘文館 2011年
 
『若宮大路周辺遺跡群(No.242)発掘調査報告書』
株式会社斉藤建設 埋蔵文化財調査部編 神奈川県・鎌倉市 2018年
 
 






本日のおたより カルベ
 
 
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