新たに始まった『里山きさっせぇ』というシリーズ、お楽しみいただいてますか。
この「きさっせぇ」とは、この周辺の方言で「おいでよ」という意味です。
今日は歴史的な場所をご紹介をします。皆さん、里山へきさっせえ~よ。
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今年は新天皇が即位する年。こんな記念の年にぜひご紹介したい場所があります。
天皇の大嘗祭(即位後初めての新嘗祭)に用いられる新穀を奉納する斎田として、卜定(ぼくじょう)により悠紀(ゆき)と主基(すき)の二箇所が選ばれています。
江戸時代まで代々の天皇が奈良や京都にいたためか、悠紀斎田と主基斎田のほとんどは西日本から選ばれていました。
しかし、幕末の不安定な状況の中、14歳で皇位継承した明治天皇は新たな都である東京におり、即位の礼をはじめとした儀式を東京でおこなうこととなりました。これにより悠紀斎田が甲斐国(山梨県)巨摩郡、主基斎田は安房国長狭郡からと初めて関東地域から選ばれ、新しい時代がやってきたことを世の中に印象づけたようです。
安房国の斎田は北小町村(鴨川市北小町)字仲ノ坪の6反歩(約60アール)に決まり、この時から大嘗祭へ向けての忙しい日々が始まりました。
当時の政府は、慶応4年8月17日(1868年10月2日)即位の礼を10日後におこなうと発表し、その10日間に伊勢神宮へ、また神武天皇陵・天智天皇陵および前三代天皇陵への勅使派遣の儀をおこなうなど、分刻みの忙しさだったようです。
そして、慶応4年8月27日(1868年10月12日)即位の礼がおこなわれました。
即位の礼が無事に終了したのち、慶応4年9月8日(1868年10月23日)に「明治」に改元されました。明治元年は慶応4年1月1日(1868年1月25日)とされました。
この間も大嘗祭に関する儀式が粛々と進められていたようです。
主基斎田のある地元北小町では、警備が厳重におこなわれる中、斎田の西側には、八神殿(はっしんでん、天皇を守護する八神を祀る)や稲実殿(いなのみどの、収穫した稲を納める)などが設けられていました。
やがて宮殿より派遣された役人により各儀式が進められていきました。
明治4年9月24日(1871年8月10日)神祇省の役人八名が、抜穂使(ぬいぼのつかい)として北小町に到着。
明治4年9月27日(1871年8月13日)北小町村の役人四名と地主七名が羽織・袴姿で稲刈りをする「抜穂の神事」をおこない、稲実殿に納めました。
翌明治4年9月28日(1871年8月14日)に脱穀。
さらに翌日の明治4年9月29日(1871年8月15日)稲は抜穂使に上納され、その日のうちに抜穂使は帰京の途につきました。
大嘗祭がおこなわれたのは明治4年11月17日(1871年12月18日)皇居吹上御苑にておこなわれました。このときに悠紀斎田と主基斎田のお米が使われたのです。
無事に大嘗祭を終えたのち、八神殿や稲実殿などの建物はすぐに取り壊され、もとの水田の姿に戻されたそうです。
その後、大正4(1915)年11月10日、大正天皇御大典(ごたいてん、即位を内外に知らせる)にあたり、この場所を主基村と改め、斎田だった水田の一部を埋め立てて公園を造り、記念碑を建て、後世に伝えています。
昨年2018年は明治150年にあたり、さらに今年2019年は次なる改元がおこなわれるという時代の節目です。
この土地に暮らす者としては、少々の感傷と慶びのようなものがあります。
こちらにおこしの際は、ぜひお立ち寄りください。
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