皆さんこんにちは。
当店「Cafe & Meal MUJI ホテルメトロポリタン鎌倉」が今ある場所は、過去どのような風景だったのかを探るコーナー、「室町・戦国時代から江戸時代初期編その2」をお送りします。
前回は鎌倉幕府滅亡後の鎌倉の歴史を大まかに見ていきました。
政権をめぐる乱世の中で、幕府滅亡後も、鎌倉は武士にとって重要な東国の中心地であり続けたことがわかりました。
それと同時に、鎌倉を掌握しようする数々の戦乱により、傷つき衰退していった鎌倉の町。
今回はこの時代の鎌倉に住む人々の様子と、当店があった場所、「
二の鳥居」付近の風景にせまります。
当時の当店のある場所を探る手掛かりは「二の鳥居」と、「中の下馬橋」という、今は無い橋の存在です。
以前のおたよりで当店のスタッフが「
下馬」についてご紹介したように、海から鶴岡八幡宮に続く
若宮大路にはかつて下馬が三つあったと言われています。
それぞれの下馬には橋があり、
「下馬橋(げばばし)」と呼ばれていました。
今交差点名にも残っている「下馬」は、「下の下馬」。その脇には今でも下馬橋の欄干がモニュメントとして残されています。
「上の下馬橋」は現在の鶴岡八幡宮の太鼓橋、そして「中の下馬橋」は当店の目の前の「二の鳥居」付近にあったとされています。(地図① 場所は推定です)
現在二の鳥居前の西側に橋の欄干の片側のみが残されていますが、これが「中の下馬橋」の名残りなのか、別の橋なのかは分かりません。
当店近くにあったと思われるこの「中の下馬橋」ですが、度重なる戦乱や洪水などで橋が使えなかった時期があったようです。
1461年には下馬橋が何らかの理由で無くなっており、八幡宮の枯れた松の木を渡して橋の代わりにしていたという記録があります。(『香蔵院珎佑記録』)
枯れた松の丸木とは、なんとも頼りなく、渡るのに勇気が要りそうです。
鶴岡八幡宮はその時代ごとの為政者により保護・修繕が行われ、比較的きれいな状態を保っていたようですが、その他の道などは荒れたまま放置されていたのかもしれません。
さらにその約100年後には、
「若宮大路がひどく荒れた状態であり、人々は廻り道をしなくてはならず不便な生活が続いていた。ある町人が道や下馬橋を直そうと一人で頑張って土木作業をしていたが、一人の力では限界があるため、寄付を募って欲しいと八幡宮に懇願に来た」
という記録があります。(『快元僧都記』)
この様子だと、道も荒れ、橋も壊れて、当店の周りもかなりボロボロだった様です。
しかし鎌倉に住んでいた人々はそんな状態を何とかしようと奮闘していた様子が、当時の記録から垣間見られます。
そのほか、鎌倉に住んでいた人々の様子で印象的なエピソードがあります。
「たくあん漬け」の考案者として有名な沢庵宗彭というお坊さんが1633年に鎌倉を訪れて、次のようなことを記録しています。
「芝生の広いところがあり、ここは右大将(源頼朝)の御殿の跡地として、鎌倉の民は今でも種をまいて畑にしたりせずにいる」
源頼朝の屋敷跡(地図②)は、現在の
西御門から二階堂にかけての広大な土地です。
この時点で頼朝の死後400年以上の時間が経っているのですが、鎌倉に暮らす人々は頼朝を慕い、頼朝の御所には手を入れないよう、特別な土地とみなしていたようです。
ちなみに現在は静かな住宅街となっています。
また、人々の活気を伝える戦国時代の祭の記録も残っています。
二の鳥居から南に歩いて10分ほどの場所にある祇園天王社(現在の大町八雲神社 地図③)では、祭の最中に喧嘩や口論を禁止する命令が出されました。
禁止しなくてはならないほど、人々が祭に熱狂していた様子が想像できます。
この祭は鎌倉公方も屋敷前に桟敷を設えて見学したようです。きっと見応えのある祭りだったのでしょう。
このように、ともすると寒村となってしまったと思われがちな室町・戦国時代の鎌倉の市中では、人々が生き生きと生活していた様子が想像できます。
(参考:『戦国の村を行く』藤木久志著 朝日新聞社 1997年)
盛栄を極めた鎌倉幕府が滅亡した後も、武士による保護と、鎌倉に住む人々の先人に対する想いが町の遺構を守り、さらに江戸時代に観光地化されたことによって、今現在に鎌倉時代からの町の構造が多く残されている。
鎌倉という町は歴史の深い町だなと改めて思いました。
いよいよ次回からは鎌倉時代の鎌倉を調べていきたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本日のおたより カルベ
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Café&MealMUJIホテルメトロポリタン鎌倉
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