【Café&Meal MUJI 鎌倉】室町から江戸時代初期の鎌倉 その1

【Café&Meal MUJI 鎌倉】

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2021/07/05

皆さんこんにちは。
ひっそり続けている、当店「Cafe & Meal  MUJI ホテルメトロポリタン鎌倉」が今ある場所は、過去どのような風景だったのかを探るコーナーです。
 
今までに昭和~明治時代編、江戸時代編をご紹介しました。
さらに遡って、「室町・戦国時代~江戸時代初期」編を、2回にわたってご紹介していきます。
 



幕府滅亡後の鎌倉というと、あまりイメージがわかずに空白期間のような印象があります。
 
この時代の鎌倉ではいったいどのようなことが起こっていたのでしょうか。

 
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今回はまず大まかな歴史を辿って行くとともに、当時の武士にとって鎌倉がどのような場所だったのかを見ていきたいと思います。
 
 



鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は、室町幕府を開くにあたり、新幕府の方針を示した「建武式目」で鎌倉を「吉土」と表現しています。
源氏三代と北条氏が長く武家政権を行なった縁起の良い土地という意味のようです。
新しい幕府をこのまま「吉土」である鎌倉に据えるべきか、別の場所にするかの検討が行われ、結局新しい幕府は武士にとっての「吉土」鎌倉ではなく、京都に開かれることとなりました。
 
しかし依然として関東を統括する中心地として重要であった鎌倉には「鎌倉府」を置き、それを補佐する「関東管領」を設置します。



室町幕府の将軍となった尊氏は、二代将軍に嫡男義詮を据え、鎌倉府の長官である「鎌倉公方」には義詮の弟基氏を、補佐役の関東管領には代々上杉氏を任命し、それぞれその系譜が世襲していきます。
 



鎌倉府が置かれ、再び関東中心の地として栄えた鎌倉ですが、やがて鎌倉公方と京都の将軍家との対立、さらに鎌倉公方と関東管領の対立を中心として、鎌倉は度々の戦火に見舞われ、鎌倉府の崩壊とともに町は衰退していきます。
 
 
その後、全国的な戦乱の世、戦国時代に突入。



東国の中心都市としての機能を失い荒廃した鎌倉を復興させようと尽力したのが、1512年に玉縄城(鎌倉市城廻)を築いた北条早雲をはじめとする後北条氏です。
 
 枯るる樹に また花の木を 植ゑ添へて 
     もとの都に なしてこそみめ
 
北条早雲は鎌倉復興への意欲を詠んだこの歌を鶴岡八幡宮に奉納したと言われています。
 
1590年に豊臣秀吉によって滅ぼされるまで、後北条氏が鎌倉の社寺を再建、保護し、鎌倉の統治に努めました。
 



小田原城を陥落し、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉はその足で鶴岡八幡宮に参拝し、その後源頼朝を祀る「白旗社」に立ち寄ります。
白旗社には木造の頼朝坐像があり、その頼朝像の肩を撫でながら、「私とあなたは同じ天下取りだが、武士の家系のあなたより、庶民出身から天下をとった私の方がすごいと思う。でも天下を取った者同士、私たちは友達だ」と話しかけたと言われています。
 
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その後秀吉は、家康に鶴岡八幡宮の再建を命じています。
 



江戸時代に入り、徳川家康は、鎌倉復興へ向け本格的に動き出します。



家康は自身の将軍就任に正当性を持たせるため、源氏の子孫であると名乗り、鎌倉を武家政権の始まりとなる大切な地として、寺社仏閣を再建・保護して町の整備を進めます。



この江戸幕府による鎌倉の保護は、歴代将軍によりその後も度々行われており、現在の鶴岡八幡宮の若宮の御社殿は1622年に2代将軍秀忠が、上宮御社殿は1828年に11代将軍家斉がそれぞれ再建したものであり、国の重要文化財に指定されています。
 



江戸幕府によって保護され、次第に注目されはじめた鎌倉ですが、その後物見遊山の地として栄えるきっかけともなった人物が水戸黄門として知られる徳川光圀です。
 
当時光圀は『大日本史』という日本の歴史についての書物を編纂しており、鎌倉時代の資料が少なかったため、1674年に現地調査のような形で鎌倉を訪れます。
 



後日改めて家臣を鎌倉に派遣し、さらに詳しく鎌倉の各所について調査をさせて編集したものが『新編鎌倉志』という地誌です。



この『新編鎌倉志』には、社寺の由来や宝物、地名や歴史などが挿絵と共に詳しく載っていて、さながら鎌倉のガイドブックのようです。



実際、現代の鎌倉の観光ガイドにもよく載っている「鎌倉十橋」や「鎌倉十井」「鎌倉七口」なども、この『新編鎌倉志』で選定されたもので、この書は鎌倉遊覧の手引きとして、江戸時代盛んに作られた鎌倉絵図にも影響を与えたと言われています。
 
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ここまで鎌倉幕府滅亡から江戸初期の流れを書いてみました。
 



武士の特別な場所としての鎌倉を掌握しようとした数々の戦乱、またその戦乱により荒廃してしまった鎌倉を復興させようとした武士たち。
 



鎌倉幕府滅亡後の鎌倉というと、華々しい中心都市から一転、歴史の表舞台から姿を消してしまったかのような印象があります。
 
しかしその後の時代においても、武士にとってこの「鎌倉」という地は、源頼朝が初めて幕府を開いた都市として、武家政権の象徴として、大切な場所であり続けていたようです。
 
次回はもう少し具体的に、鎌倉の町がどのような風景だったのか見ていきたいと思います。
 



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



 
 
 
本日のおたより カルベ 
 
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