みなさんこんにちは。
当店「Cafe & Meal MUJI ホテルメトロポリタン鎌倉」が今ある場所は、過去どのような風景だったのかを探るコーナー、鎌倉時代の鎌倉編の4回目です。
前回、当店の付近に住んでいたと思われる「藤内定員」という人物について書いてみました。今回は、きっと同じ家に住んでいたであろうご家族について見ていきたいと思います。
鎌倉幕府の公式な日記と言われる吾妻鏡には、定員の息子が登場します。
名前は「定範」。
定員さんと同じく読み方はわかりませんでしたので、仮に「テイハン」と音読みで読んでみたいと思います。
初めてこの定範が「吾妻鏡」に登場するのは嘉禎2(1236)年、鶴岡八幡宮の例大祭の記事で、流鏑馬の行事の際に父・定員と共に将軍のそばに控えたと書いてあります。
その次に定範が登場するのは、その5年後。
4代将軍の九条頼経の子、後の5代将軍頼嗣の3歳の「生髪の儀」というお祝いの席です。
この儀式には、父母が共に健在である者が選ばれて参加したようで、このことから定範の母親も元気でいることがわかります。
この時定範と共に名を連ねている毛利泰光という人物がこの年に14歳くらいと推定されていますので、定範も同じくらいの年代だったのかもしれません。
そうすると流鏑馬の記事の時は10歳前後でしょうか。
まだ幼かった4代将軍頼経と共に京都から鎌倉に下って以降、頼経のそばで信頼されてそばに仕えていた定員同様、息子の定範も若い頃から次期将軍の近臣となるべく将来を期待されていたのでしょうか。その後も幕府の行事などに名前を連ねるようになります。
しかし、前回少し触れたように、将軍職を退き「大殿」と呼ばれて依然大きな影響力を持った九条頼経と北条執権との対立で、九条頼経は失脚。
将軍家の信任厚く、順風満帆と思われた定員父子ですが、この「宮騒動」と呼ばれる事件により近臣である藤内定員は出家、息子定範も処分を受け、以降吾妻鏡の記録からは姿を消してしまいます。寛元4(1246)年のことです。
その後の藤内父子のことはよくわかりませんが、「山城醍醐寺文書」の中に「亡父但馬前司(藤原)定員」という言葉が出てくる書状がありました。
この書状が書かれたのは宝治元(1247)年、「宮騒動」の翌年です。
「亡父」とありますので、定員は宮騒動の後まもなく亡くなったのかもしれません。
さて、藤内定員の家の屋根が飛ばされた年から現在は約790年。
古くからの道は多く残っていますが、鎌倉の町の景色は様変わりしました。
鶴岡八幡宮の東にある「二階堂」という地名は、鎌倉時代にはまだ珍しかった二階建てのお堂を持つ「永福寺」が建っていたことが由来だそうです。
当時は源頼朝の住む屋敷をはじめ、他の御家人の家も平屋だったはずで、きっと見晴らしの良い景色だったのでしょう。
定員の屋敷ももちろん平屋だったはずですが、それが今や5階建てのホテルに。
鎌倉時代の人々が今の鎌倉の街を見ることができたなら、さぞや驚くことでしょう。こっそり反応を見てみたい気がします。
以上、当店の鎌倉時代の住人についてでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
《参考にした本》
『現代語訳 吾妻鏡10』五味文彦 本郷和人 西田友広編 吉川弘文館 2011年
『鎌倉遺文 古文書編第九巻』竹内理三編 東京堂出版 1975年
『金沢北条氏の研究』 永井晋著 八木書店 2006年
本日のおたより
カルベ
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